野球を取るか女を取るか迫られ、沙知代を取って、南海・野村克也監督が退任ってびっくり。

野球を取るか女を取るか迫られ、沙知代を取って、南海・野村克也監督が退任ってびっくり。
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今でこそ、ご意見番的に偉そうにしているけど、私生活はダメダメな感じですね。

時が経てば、みんな忘れるので、不祥事を起こした人はしばらく大人しくしていれば大丈夫です。きっと、豊田真由子もね。

 1977年9月26日、スポーツ紙が「南海・野村克也監督解任」とぶち上げた。南海のプレーイングマネジャーだった野村は、離婚前から前夫人と別居し、現・沙知代夫人と新スタートを切っていた(のちに離婚成立が9月22日だったと明らかになった)。

記事の内容は、この沙知代夫人がグラウンドや監督室に出入りし、さらにはコーチ会議にまで顔を出して選手の起用法にまで口を出すのはおかしいと、選手から不満が出ているというものだった。

それが川勝オーナーの耳に入った。もともと野村監督を高く評価していた人物だが、騒ぎが大きくなったため、事態収束に向け、「野球を取るか、女を取るか」と野村監督に迫ったが、野村監督はなんと「女」、つまりは沙知代夫人を選んだ。

9月28日は、野村監督の退任が発表された日だ。ただ、本人はその間、マスコミとの接触を断ち、野村を慕う江夏豊、柏原純一、高畠導宏コーチと自宅マンションに「籠城」。10月5日になって記者会見を開き、「彼女がコーチ会議に出たというのはまったくのデマ。私が刑事事件でも起こしたのならともかく球団は非常識過ぎる」と反論。さらに「鶴岡元老(一人。前監督)の圧力で吹っ飛ばされた」との発言もあった。夫人の現場介入など口実に過ぎず、鶴岡氏の息のかかったコーチ陣を一掃したことでクビに追い込まれた、と主張したのだ。

その後、野村はチームを退団し、「生涯一捕手」と覚悟を決めてロッテに移籍。野村派の3人もロッテへの移籍を希望したが、結局、江夏は広島、柏原は日本ハム、高畠コーチのみロッテに移ることとなった。南海はその後、ダイエーとなり、97年までずっとBクラス。これは「ムースの呪い」というべきだろうか(野村氏の愛称がムースだった)。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170928-00000001-baseballo-base