「自分は優秀だ」と思い込む戦力外社員の病理という記事には共感しました。悲しくて辛いかもしれないけど、その通りですね。

「自分は優秀だ」と思い込む戦力外社員の病理という記事には共感しました。悲しくて辛いかもしれないけど、その通りですね。

思いやりなのか、事なかれ主義なのか、組合が強いだけなのかはわかりませんが、リアルなフィードバックをしないことの弊害ってたくさんある気がします。

http://diamond.jp/articles/-/90507

 たとえば、筆者の同世代(40代半ば~後半)の会社員たちと、取材の場、様々な懇親会、酒の場などで話し合うと、9割以上が自分の能力や実績などを極端に高く評価していることに気がつく。特に大企業や中堅企業に勤務し、出世という観点からすると「将来性のない社員」が目立つ。その多くは、一定の入学難易度を持つ大学の卒業者である。自分を高みに置いて、今なお「そこそこ優秀」と思い込んでいるフシがある。

実際は、昇格が同世代の中で遅れていたり、管理職として定年を迎えて役員になることができないと目されたりしている人たちである。彼らの年齢で逆転はもう難しい。社内で「余剰人員」に分類されている疑いさえあるのだが、そんな現実にはなぜか目を向けない。

定番とも言えるのが、経営陣、人事制度、自らの処遇などに対する不満を口にすることだ。

これは、よくありますよね。飲み屋で熱く語っている人たちを見かけますし、身近にもいます。自分はそうならないように心掛けていますが、難しいですね。

 負け惜しみと言えばそれまでなのだろうが、ここに学歴病が蔓延する理由の1つがあるように思える。不満に満ちた心を平穏に保つための術が、舌鋒鋭いがピントがずれた経営批判や、20~30代社員への中傷に近い批判だ。さらに、二十数年前の学歴や10代の我が子の教育を熱く語ること、そして酒を飲んで愚痴をこぼすことである。

筆者にも経験があるが、労働市場で認められないことは辛い。過去の栄光に浸りたくなる思いはわからないでもない。そうでないと、自分が惨めになってくる。社外よりも社内の労働市場で認められないことのほうが、精神的には辛い。認められない理由も経緯も背景も、周囲から正確には知らされない。見えないところで人事が決まっていく。一層空しいし、怒りを覚える。

だがそんな人は、やはり自分を必要とし、高く評価してくれる職場へ移るべきなのだ。「そこそこ優秀」ならば、中高年でも転職が全く叶わないわけではなかろう。ところが、いつまでも未練がましく今の職場に居座る。この人たちは、「負け組」であることをいつ知るのだろうか。本来、20代前半の頃から毎期、こんなことを言われてきたほうがよかったのではないだろうか。

「あなたは、能力が低い」「同期生の中で評価は下位だから、辞めたほうがいい」「この仕事には向いていない。身の振り方を早く考えるように」――。

確かに、そうですね。でも、今、そのフィードバックをやり切る自信はないです。でも、私が入社5年目ぐらいのとき、上司が上記のような主旨のことをオブラートに包んで言ってくれたのを覚えています。「社内にこだわらずに、社外で活躍したほうがいいと思うよ」と。

この上司、ポンコツだったけど、意外に優しい人だったのかもしれません。

ただ、あまりにもオブラートに包みすぎていたのと、態度はでかかったけど、自分の実力が社外で評価されるようなものじゃないということを認識していたのとで、いまだにその会社で窓際を温めていたりします。