顔も見たこともない後輩、若き天才の学生時代の文章。ご冥福をお祈りましす。

顔も見たこともない後輩、若き天才の学生時代の文章。ご冥福をお祈りましす。

あまりにも素敵な文章だったので、転記しちゃいます。才能の差を感じさせる嬉しくも寂しいときですね。

「空と声と勝利と ~最後の運動会に寄せて~」

グラウンドに寝転がって、空を見るのが好きだ。はじめて気がついたのはたぶん中2の時だったと思う。厳しい練習が終わって、ストレッチをするときに、仰向けになったら、空が見えた。360度、覆いかぶさってくるような、端の見えない、空。吸い込まれそうで、そして、ときどき、自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚におそわれながら、チーフの声が響くまでの、短い永遠だった。
運動部に入らなかったから、グラウンドで寝転がるなんて、こんなときだけだったから、4月にこの空を見るたびに、しばらく忘れかけていた運動会の気持ちを思い出した。

応援のときはいつも一番前だった。正直なところ、はじめは高3にいいところを見せたかっただけだったと思う。でもそのうちに「オー」という声が背中を押すような、駆け抜けていくような感覚が好きになって、何回かに1回ある、みんなの声がぴったりあった最高の「オー」を聞くのが楽しかった。
声出しは今でもいつも一番内側。全員の声が一つになって地面ではねかえって、血を騒がせる。閉会式のエールの終わりの「フレーフレー」では、自分たちの声が遠くまで広がっていく、音にならない響きが聞こえるような静けさ。
運動会に魅せられていく歴史は、同時に、声の力に魅せられていく歴史でもあった。

中1の顔合わせでいきなり怒鳴られてからずっと、運動会の全部が好きだ。理不尽な顔合わせも、メガホンで怒鳴られる応援も。でも、それが嫌いな人もいる。僕らがどんな運動会を作り上げたって、全員が納得のできる運動会はおそらくできないだろう。それでも、運動会は、好きとか嫌いとか、そういった価値観の違いを超えて共有できる素直な感動のかけらがたくさんちりばめられた、開成の宝物だと思う。その感動の一つ一つを下級生に伝えていくことが、この素晴らしい運動会をずっと残していくために、僕たちができること。

そして、運動会が好きだった僕は、知らぬ間に、運動会を愛すようになっていた。

高2になって、はじめて運動会についてみんなで議論する場を経験して、僕と同じくらい、僕と違うやり方で、僕よりも真剣に運動会を愛している人たちがいることを知って、驚き、嬉しかったし、少し悔しかった。運動会を愛しているなんて簡単に口にしてはいけないのかもしれない。僕は運動会に恋をした。そして、運動会のために、真剣に考え、すべてを尽くして、運動会を愛せるようになりたい。

でも、僕はまだ、運動会最高の感動を知らない。
はじめて勝ったのは、中2の1回戦。実対、本番合わせて7回目ではじめてだった。勝てなくても運動会が好きだったけれど、勝って、もっと好きになった。勝つことがすべてではないけれど、勝ちたいと思って、勝ちにこだわって、勝って、はじめて知る世界があった。
去年の高3棒倒しの決勝、そのはりつめた空気に、桟敷で体の震えがとまらなかった。あのしびれるような時間の中で、棒倒しをしたい。今でも、決勝の舞台の中にいる、その自分の姿を思い浮かべるだけで、体じゅうを血がさわぎ、歓びが抑えきれない。
そして、優勝した黄組が桟敷の前を通り過ぎるとき、気がつくと「おめでとう」とつぶやいていた。こんなに素直に人を祝福できるのははじめてだった。あのときグラウンド中が彼らと歓びを共にしていた。すべては、あの瞬間のために、ある。

1つ嘘を書いた。1回だけ、練習でないときに、あの、空を見た。去年の緑戦で、KOされたあと、何もできなかった自分を悔やみ、立ち上がることができずにいたときに、空は、かたくて、遠ざかっていくようだった。自分のふがいなさを見せつけられているようで、逃げるようにして立ち上がった。
もうあんな空は見たくない。
優勝しよう

運動会に捧げられたすべての情熱に敬意を表して