長女にこれどう思うって言われ、読んだけれどもつまらないの一言。コメントのしようがなかったです。
仕方がないから、日本文化を西洋文化と比較するのを、自分が知識人っぽく見せるために、小難しく語るとこんな感じになっちゃうので、気をつけましょう、という教訓のために教科書に入れたんじゃないの的なコメントをしておきました。
我ながら天晴れだと思いました。
情報化や国際化が一段と進み、文化や文明が本質的な変貌をとげたかのように見える現代。この歴史の曲がり角で日本人は、どのように自らを表現し、生きていけばよいか。世の中の流れの中で立ち止まり、日本の歴史や伝統文化の諸相を見つめ直すところから始めてみよう。「鹿おどし」と「噴水」を比較して日本独自の時間や空間における志向を分析した「水の東西」、自らを正確に分析し適切な自己表現を得ることで真の国際化をめざす「鹿鳴館と神風連のあいだ」など、透徹した思考に支えられた文明批評・日本文化論。高校生にもぜひ読んでもらいたい一冊。
で、調べてみると、スーパーティーチャーの授業を見つけちゃいました。
「水の東西」とは少しひねった題です。西洋と東洋でも同じであることを「洋の東西を問わず」といいますが、ここではそれをもじって、「洋(海)」ではなく、「水」の場合は東西で異なると洒落ているのです。この洒落方でもわかるように、この評論は極めて随筆に近いものです。確かに東西の対比を図式的に表現していますが、それでいてその対比が生まれた背景には深く立ち入りませんし、馴染みにくい評論文特有の術語(テクニカル・ターム)も見られません。それゆえ、高校1年生における評論の入門には適しているということで定番教材となっているわけです。
しかしそこに落とし穴があるのです。論旨が明快でわかりやすいという評論は、面白味にかける傾向があります。逆に、興味をひいて面白い随筆的な評論は、論旨が明快というわけにはいきません。面白さが中心であり、論理性に力点を置いていないのですから、授業ではその面白さに論理性を与えることが重要になってくるわけです。この評論にもその傾向があります。一見、明確な対比の分析や構成の説明で満足してこと足れり、とするだけでは筆者の「面白さ」の背景にはたどり着けないのです。
…中略…
西洋人が人工(人為)にこだわるのは、自然を利用して作り変えてきた「人間(理性)」対「自然」との葛藤の歴史が背景としてあるのでしょう。近代論や個人主義、近代的自我の問題環境問題等にも関連してきます。
また、夏目漱石が理想としたいわれる境地に「則天去私(天に則り、私を去る)」があります。天にまかせることによって自我を離れるということですから、「行雲流水」に通じます。「天に則る」=「自然にまかせる」ということが単なる受け身ではなく、我執や自我を離れる道であるということなのでしょうが、この「自我」の問題は、漱石のみならず、鷗外や太宰や志賀などの日本の近現代人に共通する問題でもあるのです。
「近代」や「日本の近代」を高校の3年間で学んでいくわけですから、以上のことを踏まえて授業をすれば、高校現代文の入門期としてはとても適した教材といえると思います。
最後は日本の近代の話となったように、厳密にはこの評論文は東洋と西洋の違いというより日本(和)と西洋の違いを主題としています。そういう意味では「水の和洋」という題が適当なのかもしれませんが、それを「水の東西」としたのは、「洋の東西」にかけてしゃれてみたかったのでしょうね。そうした意味でもこの文章は、やはり随筆的な「評論文」です。
解説していただいたけれども、つまらなさは解消しませんでした。