- 2017/09/09
ノマドと社畜、著者の谷本真由美がネットで弾けているという噂だったので、期待してたけど、時間のムダでした。
全然、刺さるところがなかったです。一言で言うと、有用なスキルを身につけて、自立しなさい、ってことでし……
何となく良いことを書いてありそうな雰囲気はあるものの、それを最後まで読みきる精神力が私にはないことが火を見るよりも明らかだったので、断念して、結論をインターネットで探しました。
便利な世の中になりましたね。ただ、要約してくれているブログでも、ちょっとついていけない感じでした。とほほ。
1958年にロジェ・カイヨワが書いた遊戯論の古典。
特に遊びの定義と4分類は後の研究に大きな影響を与えた。
カイヨワは遊びを次の6つの性質を持った活動と定義した。
1 自由な活動
2 隔離された活動
3 未確定の活動
4 非生産的活動
5 規則のある活動
6 虚構の活動
そして、すべての遊びを次の4つに分類した。(2つが結びつく複合的な遊びもある)
アゴン(競争):サッカーやビー玉やチェスをして遊ぶ
アレア(偶然):ルーレットや富くじに賭けて遊ぶ
ミミクリ(模擬):海賊ごっこや、ネロやハムレットを演じて遊ぶ
イリンクス(眩暈):急速な回転や落下で混乱と惑乱を生じさせて遊ぶ
さらにこの分類はパイディア(遊技)とルドゥス(闘技)という対立軸に置くことができるとした。前者は気晴らし、即興、無邪気な発散という方向性であり、後者は逆に努力、忍耐、技、器用という方向性である。
この本の第一部では子供達の自然な遊びから、スポーツ、ギャンブル、演劇など文化の広大な領域をカバーする遊びの枠組みをカイヨワは構築した。そして第二部では遊びを出発点とする社会学を目指した「遊びの拡大理論」が展開される。
広く知られたように遊びには教育効果がある。カイヨワはそれを認めて、
「たしかに、遊びは勝とうという意欲を前提としている。禁止行為を守りつつ、自己の持てる力を最大限に発揮しようとするものだ。しかし、もっと大事なことは、礼儀において敵に立ちまさり、原則として、敵意なしに敵と戦うことである。さらにまた、思いがけない敗北、不運、宿命といったものをあらかじめ覚悟し、怒ったり自棄になったりせずに、敗北を甘受することである。立腹したり愚痴を言ったりする人は、信用を落としてしまう。実際、ゲームが再開されるときは、これはまったくの新規蒔き直しなのだし、何が駄目になったわけでもないのだ。だから遊戯者は、相手を咎めたり失望したりするのではなく、一そうの努力をするがいいのである。」
と述べているが、さらに遊びが人類にもたらす意味にまで解釈を拡大して、遊びこそ文化文明や社会の歴史発展に必須の重大なものとしてとらえていく。
「遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化する。遊びはこれら本能に形式的かつ限定された満足を与えるが、それは本能を教育し、豊かにし、その毒性から魂を守る予防注射をしているのだ。同時に本能は、遊び(の教育)のおかげで文化の諸様式の豊富化、定着化に立派に貢献できるものになる。」
遊びの4分類のうち二つが密接に結びつくケースがあると述べている。特にミミクリ(模擬)とイリンクス(眩暈)の対は、古代の宗教政治において重要な役割を果たした。神々の仮面をかぶったシャーマンが恍惚状態の眩暈の中で宇宙からのメッセージや超常的パワーを受け取る。やがて、こうしたシャーマンの役割は古くさいものとして排除され、、アゴン(競争)とアレア(偶然)を基調とする民主主義や科学という新しい制度によって置き換えられていく。
「以上、見てきた通り、いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリの組み合わせの優位を少しずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう。」
現代の人類は誰でも能力と運次第で成功できる民主社会という壮大なゲームの構造をつくりあげた。
遊びは人間だけのものではない。動物の子供も遊ぶ。遊びは動物に共通する本能である。その基本的な本能を公共のために飼い慣らすことができたのが人間の成功の秘密だったのかもしれない。カイヨワの遊戯論は後半でいつのまにか文明論に発展していく。読み応えたっぷりである。