- 2015/06/03
長女の勉強の丸付けをしていたら、計算ミスはあったものの、珍しく絶好調だった。なぜだろう。
単元的に得意分野が集まったというわけではなさそうなので、集中力の問題なのかなぁ。 だとすれば、なぜ集……
将棋連盟が公式サイトにコラムを載せていました。
実は将棋の大会では、応援や声援は禁止されています。保護者が観戦するにあたっては、対局場の周りに黄色の線が引かれ、その内側には入れないようになっています。保護者はただ見守るだけの「無言の声援者」でなければなりません。
一生懸命頑張っている子供を信じて、その背中を黙って見つめているお父さん、お母さん。必死に格闘している自分の子どもを前にして、きっと苦しい気持ちになってご覧になっていることでしょう。
大声を張り上げたり、音を立てたりして応援する競技やスポーツが多い中、じっと黙って見守る。子どもの力を信じて、子どもに任せるといった無言の声援も、私たちが忘れそうになっている日本人の心なのではないでしょうか。将棋をする実体験は、教育の基本「見守る」ことを教えてくれるのです。
そうそう、教育の基本は見守ることなんですよね。中学受験を経験して、確かにその通りだと思いました。コーチングに通じるところがあるんじゃないでしょうか。
http://konchan.net/x/archives/19613
他にもこんなコラムがありました。
この宣言と同じように、「負けました」と能動的に言うことが大切な行為です。敗者が能動的に口に出した瞬間、負けは単なる負けではなくなるのです。確かに将棋には負けたでしょう。しかし、それでも悔しい気持ちを折りたたんで「負けました」と言ったのは、「弱い自分に打ち克った」という証、宣言でもあるのです。「負けました」は、敗者にだけ与えられた特権です。負けを宣言することで、負けたほうが勝った相手よりも精神的に上にいけるものなのです。だからこそ、「負けました」と口に出していう意味があるのです。
将棋は、「負けました」と言って勝負が終わるというのが「型」として組み込まれていますから、負けてなお成長する機会が用意されています。「負けました」というその行為を実体感し続けることができるゲームなのです。
この「負けました」を言う意義に気づくと、負けがプラスの意味を持ちます。将棋に限らず、スポーツでも運動でも同じで、「負けた。悔しいからもうやめた」では進歩はありません。負けて悔しい気持ちを折りたたみ、負けを乗り越えてまた前に歩きだすことで、人は成長していきます。
負けず嫌いなだけでは成長しなくて、その負けをどう受け入れて次に活かすかというのがポイントだと思います。
長男も家で将棋やバックギャモンに負けると、泣いたり、不機嫌になったりするけれども、道場で負けた時は、悔しい気持ちを抑えて戦っているわけで、素晴らしいことなんですね。
親の目から見ると、歯がゆいことも多いですが、温かく見守っていきたいです。