箱庭の中での自由、自尊心、反抗。幼稚園児が砂場で遊んでいても、大人はムキにならないでしょ。
じゃあ、なぜ、中高生相手に。
そんなの簡単ですよ。もしかしたら、近い将来に自分の地位を脅かす存在になるかもしれないから。思春期というのは、子ども側だけの問題でなく、余裕のない大人側の問題でもあるんだと思いますが、いかがでしょう?
ということなんで、名門校は、砂場ですよ、砂場。遊んでいる本人たちが強くは意識しない「安全」があれば、あとは、誰と遊ぶかというのが重要になってくるのかな。
おおた氏は名門たる三つのキーワードを挙げる。それは、「自由」「ノブレス・オブリージュ」「反骨精神」の三つ。
僕は個人的にはこれには全く同意できない。
まず彼らは「自由」を完全に履き違えている。
まだまだ高校生としてだけの狭い考えで自分で常識を作り、自由の名の下に自分勝手な行動をする。そのくせ自立していないにも関わらず、都合の悪い時には子供振って逃げる。自由には責任が伴うのだが、彼らは決してそれを負うことはせずに、自由という名の自分勝手を追求する。次の「ノブレス・オブリージュ」。
そう言えば綺麗だが、彼らの持っているのは、単なる「選民思想」。自分達は受験に勝った優秀な人たちであり、その辺の人たちとは違った選ばれし人だという発想がこびりついている。たまたま受験というゲームに強かっただけなのに、人生における成功者のように振る舞い、自分達は大学受験勉強ばかりしているわけではない、世の中のためになることを考えているのだという上から目線の発想ばかりである。そして、「反骨精神」、それも責任を負わない自由からきている。
これらの学校の教師は、やはり教師以外の社会人経験がない人が多く、世の中のエスタブリッシュメントが集う、いわゆる「社会」の一員となったことのない人たちばかりで、学者のような人たちが多い。そんな彼らは、偏屈な大学教授のように左傾化する傾向にあり、それがエスタブリッシュメントに対する反骨精神として現れる。そういう人たちから、独特な授業を受けるのである。このようなところから、「ある種の共同幻想を演じる空間である」というものがでてきて、そこに「実際にはありもしない「らしさ」が生まれ、そのまま絶対的な誇りになる」のである。